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July 24, 2004

良心の領界

 みなさん、こんにちわ、実は、まだまだ、このココログの使い方が今ひとつ、理解できないないのですが、昨日の文章に対してbunちゃん(という友人)からコメントが入っていて、びっくり!(そっか、こういうことも出来たんだぁって感じなんです。なかなか時間がなくて、じっくり機能説明を読めていないんですよね)
 bunちゃん、元気?久しぶりだね〜〜!(とすっかりパーソナルモード)で、というわけで、bunちゃんに、どう返信したらいいのか、良く分からず、とりあえずここで書いています。
 bunちゃんは、随分前に、自宅で第二子を自然分娩した人です。とてもクリアな魂の持ち主で、私は大好きです。なかなか会えないけど、きっといつもわくわくしながら、でも時にじっと考え、ずっと向こうを考えたりしているんだろうな〜と思っていられる人です。

 私には、そんなふうに感じられる友人、知人が何人がいます。遠くにいても、近くにいるように感じられたり、なかなか会えなくても、その人との関係性を信頼できるとか、そういう友人、知人がいることが
何よりも幸せです。その幸せを感じる瞬間こそが、まさに至福の時かもしれません。世界の中心で愛をわざわざ叫ばなくても、私の中に、時を越えて、確実に存在する想いのようなものは、いつでもどこでも静かにふつふつと湧き起こっているような気がします。

 今、読んでいる本を一冊、紹介します。私が心から尊敬している、作家で評論家でもあるスーザン・ソンタグの「良心の領界(The Territory of Conscience)」です。

book_suzan.jpg

 まだまだ読み終えていないので、感想は書きませんが、まず、序 の文章に、唸りました。これが私がまさに聞きたかった言葉そのものだったからです。
 以下、その中の文章のいくつかを紹介します。私のくだらないおしゃべりより、何倍も大事な「言葉」です。だから、私はこの文章をタイピングすることを嬉しく思います。

 若い読者へのアドバイス・・・(これはずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

 人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、またゆがめられてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ、高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
 検閲を警戒すること。しかし忘れないことーーー社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。
 (中略)
 自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。
 動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだよその国に住むこと。けっして旅をするのをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋め合わせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。
(中略)
 傾注すること、注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。
 傾注は生命力です。それはあなたと他者をつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
 良心の領界を守ってください・・・。

 2004年2月   スーザン・ソンタグ (「良心の領界」 NTT 出版より)

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Comments

スーザンソンダクは、30年程前本屋の棚に「隠喩としての病い」を見つけ、手にしかかり結局は読まず仕舞いの作家でした。
それでもどういう訳か、覚えやすいまとまった名前で、憧れの女性作家として心に残っていた方です。
今回、Ms.Fのブログを機縁に彼女の作品に触れられそうで大変嬉しい気持ちです。
幾つになっても、傑出した精神に出会えることは、自分の人生にも価値を生み出します。
そんな訳で、最近金欠ですので、すべて図書館からで以下の4冊を借りてきました。
「反解釈」「隠喩としての病い」「同じ時の中で」「良心の限界」
今日の所は「反解釈」の巻頭の同名の批評と「良心の限界」のシンポジュームの記録を読んだだけですが、それだけでも彼女の批評家としての精神が、非常に真摯で一生懸命であることがよく伝わってくるのが感じられました。

ネットに写真が載っていましたが、若い頃はモデルになっても良い様な女性で、美人はイイと言うのは女性に対する偏見でしょうが、スーザンソンダクが見た目も魅力的であったことは嬉しい事実でした。

彼女は一度結婚し、一男をもうけるもののすぐ離婚し女性と同棲生活を送ることになります。
その通りと思わざるを得ません。男なんて云うものは、私もよく知っておりますが、見栄と虚栄、何よりもこけんを護ることが大事で、真心よりも立場が優先します。

さて、引用された文の中の言葉、「傾注」という訳は何とも、哲学用語にあるのでしょうか?
ここは「思い」で駄目でしょうか。『眼前にあることを自分の中に取り組むこと』の意ですから、要するに思いが生じたと言う事ではないでしょうか。
非常に眠気が襲って来ましたので、続きは明日にでも。お休みなさいませ。

Posted by: ヒラメ | April 05, 2012 at 11:20 PM

やっと「良心の領界」を読み終えました。
自分の事、著者について、アメリカ、今度の地震等、思いが方々に飛び、大きな活字で読みやすいはずですが、結構時間がかかりました。
続けてもっと若い頃の本に移りますので、変わるかも知れませんが、取り敢えず一冊読み終えた今の感想の一番の箏を記したいと思います。
それはどうしても今の自分に引き寄せて考えますので、あくまでも私の偏見に過ぎない事を最初にお断りしたいと思います。

私が一番感じましたことは、スーザンソンダクの文学に寄せる熱い夢です。
彼女は第一章のシンポジュウムで繰り返し言語というものを盲信せず疑うべきであると主張していますので、決して文学を祭壇に祀り上げそれに殉ずる(何とここで車谷長吉の名が浮かんでしまいました)箏を良しとする様な美学の持ち主でないことは明かです。
しかしながら、それでも文学に期待する事が出来なければ、何所に希望が持てるのかと言う迸る様な情熱は随所に窺われます。少し長いですが平和賞(「ドイツ書籍出版販売協会賞」受賞記念講演)からの引用です。
『文学は、世界とはどの様なものかを私達に教えてくれます。
文学は、基準を与え、言語によって具体化された深い知識を伝えてくれます。
文学は、自分でもなく自分たちのものでもない存在のために涙を流す能力を醸成し、鍛錬してくれます。

自分でもなく自分たちのものでもない存在に共感できないとしたら、私たちはどんな存在になっていたでしょうか。少なくとも何度か、我を忘れることがなかったとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。もし学ぶことが、許すことができず、自分たち以外の存在になることが出来なかったとしたら、私たちはどんな存在になっていたことでしょうか。』

非常にストレートでパセティックな呼びかけです。
この部分を読みつくづく思うのですが、最近私が非常に馴染んできた言葉「信仰」に寄せる心情に非常に近いものを感じました。
彼女は宗教についてはクールな態度で、外側から観察・分析されていますが、宗教の持つ高揚感や信じるものを持つ事の大切さを否定する箏はされず、それが文学に対する過剰とも言うべき思いに流れ込んでいると感じました。

ここからが私の領域に飛躍した感想です。
彼女はアメリカに基盤を持つ方で、主にヨーロッパとの関係で世界像を語られていますが、ユダヤ教、カソリック、プロテスタントの変遷関係史だけでなく、此処に全然別個のアンチテーゼにもならない仏教に触れられていたら随分変わった、一挙に地平が開かれる様な時を持たれたのでないかと思いました。
これも縁でしょうけれど、観世音菩薩を知られないままこの世を去られたことは残念なことです。
『自分のためでもなく、自分たちのものでもない存在のために流す涙』大変まだるっこしい言い方です。これは説明の表現でパワーを持ち得ません。
この様な表現をせざるを得ない理由は、一重にヨーロッパ語にそれを表す言葉がないからです。
幸いなことに私たち日本人は一言で表す事が出来ます。即ち、これが「慈悲の涙」の本質です。

牽強付会と言われるかも知れませんが、他の部分で両極端、勝ち負け・上下・善悪・正誤・文明野蛮とかの、に対する拘りを避け中間的な所に依拠する重要性を言っておられる事など非常に仏教的です。
私としては非常に共感を覚えると共に、とても身近な人に出会ったかの様なおかしな錯覚に陥りました。

Posted by: ヒラメ | April 06, 2012 at 11:07 PM

私は、観世音菩薩と言うスーザンソンダクとは、普通全く結びつかない言葉を出してしまい、もし私が観音信仰に取り憑かれ、新興宗教の教祖の様に神憑り的になり、布教を企てていると思われるといけませんので、私が捉えている仏教を説明させて頂きます。

以下は仏教学第一人者である故中村元氏の書かれた岩波書店「仏典を読む1」の中の「スッパニーダ」の項に書かれている内容を基としています。

釈迦はブッダガヤーの菩提樹の下で覚りの境地に達せられます。これに付随して梵天勧請と言う有名な逸話が記されています。
釈迦が思うには『私の悟ったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり賢者のみよく知る所である・・・』
それで釈迦は世の中を見ると全員欲に取り憑かれていて言うだけ無駄と思って、布教をする気にはなられませんでした。
そこへ梵天(バラモン教の神でブラフマンという最高神)が天より降りて釈迦の前に跪き、世のために教えを説く様に説得するわけです。

ずっとここまでを中村元「スッパニーダ解説」を読んできますと、どういうスゴイ教えであろうかと期待と好奇心で胸はわくわくドキドキしてきます。
ところが釈迦の言われる事は、殺人とか盗みはしていけないとか、酒飲んでいけないとか、私など幼稚園の頃から知っている事ばかりで、肩すかしもイイ所です。
まとめますと「出来るだけ欲は少なくし、足ることを知り、命ある限り善行に努めなさい」、これだけです。

一体、何が深遠で、どうして誰にも理解されないと釈迦は一端判断されたのか、私が思う所は次です。

宗教とは、それまで、護って貰う、救って貰う、天国へ入れて頂く、要するに安心と幸せを施して貰うものとして存在していました。
その代償として神官の命ずるまま生活し、お金やお供え、労力場合によれば命まで捧げていました。

しかるに釈迦は宗教のあり方を劇的に変えて仕舞われ、何かをして貰うために宗教があるのではなく、正しい世界認識による真理の獲得のために存在するのであるとされたのです。

釈迦の説法は殆ど生活訓の様なもので、それは後年禅として集成されますが、その禅にしても真理の中身の方は余り語られません。
これも分かる所で、真理というのは畢竟一人一人が自分で獲得しなければ意味がありませんし、又一人一人時代も生い立ちや環境とも変われば、一定であるはずがありませんので、固定した結論などは出ないはずです。洗練された瞑想法だけを提示し、中身は自分でです。
師匠様の言われる通り、一字一句違わず人生を送りますと言う生活態度は、釈迦の自由な精神から最も遠いものであると思います。

以上が私の仏教観です。敢えて畏れ多い表現をさせて頂くと、釈迦は釈迦、私は私です。
勿論、私は私、アナタはアナタです。

これでは哲学と全く同じで神も仏もあるものかと言いたくなるかもしれません。哲学のことは分かりませんので違うとも言いかねますが、私たちは目に見える形では(神)や(仏)を持つ事は現実的には不可能ですが、「神」や「仏」と言う言葉を持っています。

この二語には、古来より人間の最大限の夢が籠められています。
ですから出来る限り良い神様や仏様を心の中に思い描いて、それを育んでいくと言う事が肝要です。

言い換えれば「愛」とか「慈悲」と同じことですが、それらがイエスとか観世音菩薩と具象化されることにより、一層心に働きかける力が出てくると思います。

それは「母」という言葉を思い描けばすぐ分かる事で、現実には亡くなっていたとしても、母と言う言葉を信じることにより、生きた人間として現実的に心に作用するはずです。

大部、観念的文章が続きました。
私のご先祖の佐吉翁は、仏とは慈悲の心であると言っておられますから、私としては、その線で歩んでいきたいと思っております。又、佐吉翁の生涯を見ましても、十分納得がいきます。

出来る所から無理せず、楽しさを忘れずに、一歩一歩動いてみたいと考えております。

Posted by: ヒラメ | April 11, 2012 at 10:22 AM

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