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July 19, 2005

メビウスの環

 世の中の人にとって 誰が考えたかとか、誰がはじめたとか、誰が紹介して繋がったからモノゴトが展開したとかなんて、すぐに忘れ去られてしまうもの。もちろん、その後の展開も大変な仕事なのだからって分かっているけど、でも、私は、そういうことが忘れられない。
 だから苦しいのかもしれない。
 みんなみたいに、そういうのはすっかり忘れて自分の「血肉」にしてしまえば、もっと楽なのかもしれないのにね。
 自分のことを主張すること、ある一点になると今までの態度が反転して、他者の弱みを突こうとすること、他者の悪口をいうこと、強い態度になること etc・・大切なものがあることはわかるし、お金や支払いが大事ってのも分かるし、自分たちを守らねばならないってのもわかる。でもそういう態度そのものが嫌だから、結局それらをすべて「自分」だけで受けとめて、解決してきたけど、、ちょっと疲れた。 
 これらはすべて<自分が選択し、創り出している現実>だってことも分かっているから、実はメビウスの環のように辛いのだ。

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Comments

"これらはすべて<自分が選択し、創り出している現実>"というのは、よく言われている話ですが、それは事実ではあるが、真実ではないということに気が付いている人はまだ少ないようです。
運命と自由意志は相反するものではなくて、共存しているものです。
悟った人(私ではないですが)が言うには、"自分というのは幻想である"ということです。そんな幻想である自分が選択し、創り出している現実とは一体何なんでしょうね?

Posted by: ふじた | July 20, 2005 at 10:33 PM

ふじたさん
私は、自分=人間(自覚や自意識がある存在)が信じている世界とは、結局は想念の連鎖もしくは、<そこに在るもの>という幻想の中で紡がれていくもの、であると思います。みながその共同幻想の中で、幻想の集合体と寄り添いながらいわゆる現実が進行していきます。
運命と自由意志は自分の人生の中で、もちろん、確実に共存しています。私の知っている現実、とは、結局、どれだけ自分が意識的(今の自分が認知できうるすべての意識=ある意味での無意識や直感も含めた)に行動を選択できているか、によって、その現実がより自分の手の中に近づいてくる、というものです。思い描いたことのほとんどは恐ろしいことに現実になる可能性がとても大きいですし、その意志の力を信じることで、現実がよりリアルになるということ、しかし虚実もまたリアルであるというところが、生きることのおもしろさです。
事実は他者が決定することもできますが、少なくとも真実は、自分の魂でしか決定することはできません。みなが信じようとしている最大公約数の真実、というのは、本当は、幻想に寄り添った愛に近い<想い>なのではと私は思っています。

Posted by: nf | July 20, 2005 at 11:17 PM

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