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February 2006

February 08, 2006

映画「ミュンヘン」の底に流れるもの

323817view003 先日、スピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」http://www.munich.jp/を観てきました。
 ミュンヘンオリンピックのテロの犠牲者には、辛くて観ていられない映像だろうなと想いながら、でも、スピルバーグの「復讐は、結局、誰ひとりとして幸せにはしない」という言葉では一切出てこないメッセージが、静かに、暗く、しかし強く横たわっていた。
 あとあとまで、じわじわと伝わってくるものがあり、それを映像や象徴的なシーンの積み重ねの中で感じさせている手法のうまさには、唸りました。勿論、役者も上手い!このあたりのキャスティングは実に絶妙だ。
 テロリストや、テロの犠牲者が殺されるシーンなどは、眼をあけていられない非情さで、現代人や、国家の偉い人々には、これくらい具体的に示さないと、最早彼らは、ひとりひとりの命が国家イデオロギーのために、無意味に(!)暴力的に奪われるということのリアリティを見いだせない程、鈍感な人間になっているのか、という虚しい想いを感じた。同時に、それをスピルバーグが知り尽くし、実感し、映画の力を信じて、あれほどの悲しいシーンをあれほどのリアリティを持って(大金を費やして)構築したのかと思うと、なんとも複雑な心境になった。
 私はしばしば、映画の力、映画というメディアについて考え込む。
 例えばこの作品で言えば、もしかしたらあの非情なシーンは省いて、淡々と「その後」の「報復者」を描いただけだとしたら、どうだっただろう。
 そうしたら「報復者」たちの置かれた環境の理不尽さや、その後の行動を観る眼が変わっていっただろうか?と。
 私を含む現代人には、あの「ミュンヘンオリンピック」の悲劇について、既にイメージできない程、遠い記憶になっているとしたら、映像に描かれているリアリティ=衝撃 を持ってあれらのシーンを描かなければ、この映画は、私にとって単なる「報復者の悲劇を描いた」映画程度にしか感じないまま終わっていたのだろうか?
 やはり、あとあとまで考えさせられる後味の悪さにも似たこの映画へのやるせなさは、国家規模の(しかし、動くのは結局、ひとり、ひとりの小さな人間なのだ)行動原理の中にある、不気味な思想をより、衝撃を持った映像で描いているからこそ、生まれたものなのだろうか。ううむ。
 スピルバーグは、「ミュンヘンオリンピック」の惨劇を丁寧に描いたことで(言葉による説明はほとんどない。すごい映像の力がそこにはあった)、結局、テロリスト、被害者、その両方の存在が、いつでも逆転する「復讐の連鎖」について、当事者達をほとんど、どちらか一方の国のほうが<悲惨><被害者><加害者><悲劇の主人公>とすることなく、とても公平な存在として(それが「復讐の連鎖」そのものの実質的な意味なのだから)きっちり描いている。
 例えば、戦いのシーンや、暴力シーンなどを一切描かないでも、その「復讐の連鎖」の恐怖を描いた映画もあるのに…、とも思う中で、やはりハリウッド映画として描く以上、こう描くしかなかったのかもしれないし、それが結局、この映画の存在の意味なのかもしれない。

 ある意味で、テロの「その後」を描いているという意味では、9.11の「その後」を描いた映画を作りたいと思って、しこしこ小説を書き続けている私の心情とも重なりますが(勿論、スケールは全然違いますが…)、私は、結局「その後」から立ち直るためには、国家だけでもなく、勿論、報復でもなく、ひとりひとりの人間の関わりの中で、自分の暮らしの中での、アタッチメントとしての、深くて暗い井戸の底からかはい上がるための小さな“生きる希望の光”を見出すことだと思っている。
 そんな想いもまた、スピルバーグ監督が伝えるような大きな影響力をもつメッセージとも、実は、同じ流れのなかにあることが、ちゃんと伝えられるといいのだけど。
 ううむ、まだ自分の書いたものが、それらを表現しきれているかは分かりませんが。
 いずれにしても辛い映画ですが、やはり観ておくべき映画だと思う。最後のシーンは、さらに象徴的でした…。

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