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March 2008

March 29, 2008

ちりとてちん、ありがとう〜。

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 大好きな、大好きな「ちりとてちん」、とうとう終わってしまいました。


 今日は、朝8:15分からの放送を見て、笑い、泣き、そして、9:30分からのBS総集編でまたまた笑い、泣き、11:00からの「ちりとてちん落語ワールドSP」で、またまた泣いて笑ってしまいました。。

 とにかく「あ〜〜〜終わった!」という感慨に耽っています。


 そして、多分、同様な気持ちでいるであろう全国の「ちりとて」ファンのみなさんのことを思いつつ、悲しいけれど、途方も無く幸福な気持ちに包まれています。

 悲しみと喜び。涙と笑顔。ほんとうに半年間、ありがとうございました。こんなに感動して、こんなに楽しみにしていたドラマは未だかつてありませんでした。

 ちりとてキャストのみなさんスタッフのみなさん本当にご苦労様でした。そしてありがとう。


 そしてそして、同様な気持ちをシェアできたであろう全国のちりとてファンのみなさんありがとう〜。


 このドラマの素晴らしさは、書き始めたらきりがない。
 でも、私は、このドラマが存在し得たのの理由のひとつには、キャスト、スタッフ含めたすべての制作者、ひとりひとりの、個人的な人としての想い、本音、本気、正直さが、きっちり表現し続けられたからこそだと思います。

 例えばNHKスタジオパークに、四草役の加藤虎之介さん登場した日の、脚本家の藤本さんの言葉に、抑えきれずにぽろぽろと涙した加藤さんの横顔、そしてそこに草原役の桂吉弥さん草々役の青木崇高さん小草若役の茂山宗彦さんらが登場したときのみなの笑顔と涙。
 それは、作り物なんかではなく、ほんとの気持ちが現れていた。

 例えば最終回の前日、3/28の朝8:15分からの放映が終わってNHKニュースに切り替わった時、かつて誰も言ったことのないであろうセリフ「明日の最終回もお楽しみに」と、森本アナウンサーが初めて言ったこと。
 思わず「おお〜〜!ナイスじゃん!」と叫んでしまった(多分、みんなもそうだったと思うけど、森本アナ、叱られてないかと心配にもなったけど)→まだ、見ていない方はこちらへ
 

 マスメディアでありながらも、ひとりの人から人へ、伝える「本物の言葉」があると思った。
 
 NHKにも、いろんな問題を抱えていたけど、もしかしたらすこし変わったのかも?と期待すらできる
「こころ」がある、「わたし」が居る、「あなた」を知る、そんな番組づくりが、やっと出来るようになったのか。

 そういう番組を作ろうとしている人々ひとりひとりの人生が、そこに出始めたような気がして嬉しかった。


 私も、そういう仕事をこれからもしていきたい。
 

 人の悪口を言うのではなく、人のせいにするのではなく、人を幸せにする仕事。


 仕事とはそういうものであるという信念を貫いて、喜びと悲しみをみなでシェアできる「寛容と慈悲のこころ」を忘れない、あたたかな人生を笑顔で歩みたい。
 

 そんなシンプルな人生への願いを、私にもう一度、確信させてくれた「ちりとてちん」。
 
 ほんとうにありがとう。


 このドラマをシェアできなかった方々へ。

 あなた方の人生は、今そういう場所にあるのだろうけど、もし、いつか、機会があったら、総集編や、DVDをご覧になったらいかがでしょうか。
 

 私は強制も、押し売りも、押しつけもしませんが、私は、このドラマをシェアできる感覚の人々と、生きて行きたいと思っています〜。


 それが、私の ちりとてちん。

追伸:総集編が<NHK総合>で、
   5月5日(月祝) 午前8時35分~10時13分(98分) 
     ○前編「笑う門(かど)には福井来(きた)る」
   5月6日(火祝) 午前8時35分~10時13分(98分)5月5日
     ○後編「笑う一門には福来(きた)る」
   として放送されますよ〜。

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March 28, 2008

徒然なるまま

世の中には
本当にいろいろな人がいる。

20代の私は、映画をつくる仕事をしていた。そこで接した芸能界の人々の中には、それまでの私が出会ったことのない「平気で嘘をつく人々」がいた。
ちょっとやくざっぽくって、「人を脅す」人がいた。
まるでテレビで見ている芸能界の人、、みたいで、可笑しかった。

でも、私は、そういう人に会う度に、その人のまわりにまとわりついている黒いもの、って何だろうと思っていたけど、それがその人の本性を象徴する雰囲気(オーラみたいなもの)だと悟ってからは、そういう人に近づかないようにした。

30代の私は、その黒いオーラを嗅ぎ取ることが出来たせいか、選択的に生きるすべを身につけたせいか、はたまた、中途半端な世代のせいか、企画や編集、プロデュースの仕事をしながらも、直接攻撃されることなどなく、ずっと安心して仕事ができた(男女問わず、出会う素晴らしい先輩達には大変可愛がっていただけて、沢山、教えていただいた)。
そんな中で、発見したのは、何も発していない人の存在だ。
一度、私は、自分よりずっと年上のその不思議な存在の方に対してつい「そんなふうに生きていて何が楽しいのか」と言ってしまった。
その人の顔が一瞬止まった。そしてそれきり黙ってしまった。
私は、彼を傷つけたのだと思った。

そして、こういうことは二度と(求められていない限り)口にしてはいけない、と思った。

40代になって、自分の社会的なキャリアみたいなものがついてくると
私を「立てて」下さる方が出て来た。
すごく有り難い〜。心から感謝。

でも、そんな中で発見したのは、まれに存在する「極端な二面性を持つ人」の存在だ。
そういう人は、自分が「極端な二面性を持っている」ことを自覚していない、もしくは自覚しているが、それが自分の「仕事」のために必要なことだという100%の自己肯定をしているから、まったく悪びれた所がない。そして、それによって他者を傷つけても、まったく反省することがない。

人間、40年以上も生きていると、「自分を反省して、変えること」が出来にくくなる。
多分、日本の社会システムと教育のせいだろうけど、なんのかんのと外側(会社や家庭や、資本主義理論など)の理由をつけて、自分を正当化するという思考形態が出来上がり、そのためには他者や自分より弱いと思うものを攻撃して自己正当化するという思考と行動本能が、固定化される。
結局は、
「寛容」なこころが、なくなってくるということで、
戦争などもすべてそんな「発想」の中で、行われる。

でも、そういう人にも1点だけ有り難い点がある。
それは、「私の鏡」となってもらえることだ。
私もまた長く、男性社会の中で生きている。ふと、自分が同様な思考をしていないかと、危惧をする。
そんなとき、私の鏡となって「嫌なキャラクター」などを演じてくれる存在は、私の心を一時は、烈火のような怒りに向かわせるけど、その後、自分の選択すべきは、そちらの感情ではなくて、「寛容」の道なのだと強烈に自己を向かわせてもらえる。

ただ、この行為、結構、内的ストレスも多い。だから実際は、自分が巻き込まれている「鏡面行為」からは、その「意味を学習」したらさっさと立ち去るのが良い。

そこが今、40代中盤の私に試されていることだ。
「社会的責任」と「今まで自分が頑張ってきたことへの執着」が、
実は、自分の行動を阻めている。

でも「社会的責任」は、自分のこころの健康があってこそ、果たされるものであり、「執着」は、もっとも私が嫌いな感情なのだ。
(執着は、生への本能的執着だけで十分なのだ)

だから、今が勝負時。

「鏡面行為」の人は、黒いオーラを持っていても、それを見えなくさせる技を持ってる。
 私はその先の真の色彩を、さらに見分けられる「人」になる必要がある。

この歳にして、まだまだ未熟な自分。。。
今まで私にたくさんのバトンを渡してくださった(もちろんその中には沢山の素敵な男性も含まれている)方々のためにも(勿論自分のためにも)、、もっと、進化が必要なんだって。

今日の空、網網の雲がまるで大きな「手」のように見える。
その隙間から、黙視的な朝日が見える。

手は、すでに解かれ、飛ぶ雲そのものになった。
自在に循環する存在。

高速で動きながらも、ゆったりと見える雲の動きが
好き。

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March 23, 2008

as time goes by

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 三月の初め、ここ10年程、親しくしていた大好きな友人が亡くなった。

 彼女は、昨年の夏に突然発病し、闘病生活を繰り返していたのだけれど、私は彼女は絶対に「死なない」と思っていた。

 「まだ、死なない」「まだ死ねない」。
 彼女の想いは強く、彼女の精神も強かった。
 
 でも、彼女は「もう、いいかな」と思ったのだろうか。

 ここまで頑張った。ここまで努力した。そして彼女のお子さんはきちんと成長した。

 私は、彼女が必ず治ると信じていたから、亡くなる前の日も、携帯にメールを送ってた。

 「はやく良くなって、また一緒に仕事をしようね。ずっと待っているから」

 そして、迷いに迷って、最後に書いた。

 「愛してるよ〜。Hさん」って。

 こんなこと、書くと変に思うかなって、迷った。だって、普通は言わない言葉だもの。なんかだ本当に病気が悪いみたいじゃん。って。

 でも、書かずにはいられない気持ちになった。
 何故だかは分からない。だけど、伝えなければと思っていた。
 
 断じて言う。私は彼女は「まだ、死なない」と思っていた。病気を克服する、、と信じていた。
 
 だから、そのメールが最後になるなんて、思ってもいなかった。

 でも、実は、その日の夜、彼女が夢にくっきり現れた。
 彼女は、赤い服を着ていて、笑顔で私に言った。

 「いろいろありがとう。。。。」

 私は彼女とハグをした。その感触、しっかり覚えている。

 そして彼女は言った。
「じゃあね」 って。
 笑顔で。
 そして、いつものように手を振って、クルリと向こうを向いた。
 
 次の瞬間、彼女は消えていて、私は目覚めた。
「昨晩、寝る時に彼女のことを沢山、沢山、考えたから夢に見たんだなぁ」って思った。

 決して、本当にお別れに来たなんて、微塵も思いたくなかった。

 翌々日、彼女のご主人から電話があって、彼女が亡くなったことを知らされた。

 
 私は、彼女のがんばりを、彼女の希望を、彼女の願いを、沢山、沢山、知っていた。
 だからこそ、彼女の悲しみや、彼女の悔しさも知っている。

 まだ、逝きたくなかったはずだ。
 でも、その絶望的な辛さ、痛みを私は知らない。
 
 今、生きている私は、実は、何にも彼女と共有できない。
 彼女の悲しみを推し量る事も、シェアする事も、苦しみを和らげることも、病とともに闘うことも今となっては、なんにもできない。


 そして、私は、彼女に会いに、四国へ行った。

 彼女は、棺の中で、眠っていた。
 そこにいたのは、かつて私と笑ったり、泣いたり、考えたり、喜んだりした彼女ではなく、ただ、そこに眠る「人」だった。

 それまで毎日、毎日、彼女を思い出しては泣いていたのだけど、もう泣かない、と思った。
 彼女はもう、逝ってしまったのだ。

 「じゃあね」 
 と、彼女は私に言った。
 夢の中だったけど、目の前の棺の中の彼女より、ずっとリアリティがあった。


 その日、私は、お葬式を終えてマリンライナーにのって高松から岡山に到着すると、一緒にお葬式に行ったHIROEさんと別れて、ひとり、岡山から広島に向かった。

 私は、岡山から新幹線ではなく、各駅停車の在来線に乗った。
 ゆっくり、ゆっくり、時を消化したかった。

 どこかに向かうこころ。
 どこかに見送るこころ。

 車窓の景色は、ゆるやかに変化していった。

 海岸線を走っていた列車が、途中から山深い道に進む。
 途方も無く深い嶺の下を行く列車。
 切り立った崖の上空に、まるで宇宙ステーションのような橋がかかっていた。

 私の向かいの席にすわっていた茶髪の15.6歳の少女の横顔が、時折、窓ガラスに写っていた。
 
 ただ列車の中で、その動きに身を任せて過ごした時間が、次第に私のこころを強くしていった。

 いつか、私も行くであろう、遠くの場所。
 それは、この列車の旅のように果てしなく、まがりくねった先にある。

 何時間経ったのだろうか。
 いつのまにか、外は真っ暗になっていた。
 とっぷりと日が暮れた夜の中、列車は、広島駅に滑り込む。

 到着駅で、目の前の少女も立った。 
 私も荷物を持って席を立とうとした時、彼女の座っていた椅子の上に、沢山のキラキラしたアクセサリーがついたままの携帯電話が置き忘れられていることに気づいた。

 思わず私はその携帯を手に取って、今、まさに列車から降りようとしていた彼女の背中に声をかけた。
「携帯!忘れているよ」

 少女は、あ、という顔をして、その後、200%に輝く笑顔で私に言った。
「ありがとうございます!」
 茶髪で、きらめくアイシャドーに不似合いな無邪気な少女の笑顔。

 すれ違う、ときの中で、私は今日も、私のときを、生きる。

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March 02, 2008

エリザベス〜寛容と慈悲の心

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  昨日の夜、息子と二人で久しぶりに映画「エリザベス〜ゴールデン・エイジ/ELIZABETH:THE GOLDEN AGE」(監督:シェカール・カプール/出演:ケイト・ブランシェット、ジェフリー・ラッシュ、クライヴ・オーエン他/2007年/イギリス映画)を観てきた。
(ここで言う、久しぶり、というのは、息子と一緒に、、というのが久しぶりなわけで、私は映画はしばしば観に行ってます。あしからず)

 実は、私はこの映画を観るのは二度目(ほんの数日前に一度、観た。その時、珍しくパンフレットを購入し、家に帰って読んでいたら猛烈にもう一度観たくなった)。
 つまり、それだけ面白かったし、とにかくきちんと見直したかった。

 衣装の素晴らしさ(第80回アカデミー賞、衣装デザイン賞を受賞!)、セット、ダイアローグ(英語のセリフ)の美しさなど、一度目には気づかなかった発見もあって、この作品の情報量の多さに圧倒される。

 例えば衣装で言うと、スコットランド女王のメアリー・スチュアートは、以前、フランスに嫁いでいたことがあるため、衣装にはフランス好みに装っている、、とパンフレットに記されており、その視点で見直すと、明らかにエリザベスとは違うデザインテイストであることがドレスの繊細な刺繍模様から理解できる。
 これはほんの一例で、とにかく全編、映像、音楽、美術、演出…あらゆるところに渡って、とことん「こだわって」製作されているから、私の目は、もう喜びっぱなしの1時間54分。

 今回は、前回、観た時よりもさまざまなシーンの中に織り込まれたメッセージがぐいぐい浮かび上がってきたし、人物の相関関係もよりクリアに観る事ができて、やっぱり映画って、文化であり、総合芸術であり、ほんと〜〜に面白い。

 一番の発見は、「恐怖が恐怖を生む」というエリザベスの言葉。
 そうか、ここには、あの、9.11へのメッセージがあったのだと、二度目でストンと心に落ちて来た。
 監督がこの映画を何故、今の時代に作りたかったのか。
 宗教戦争をしかけたスペインは、現代のアメリカでもあり、宗教の名を借りて、結局は自国の富のために他国で戦争を起こす人間の傲慢さの象徴。
 エリザベスは、「寛容」を伝えている。これは、実は、ローマ帝国をまとめたローマ人のテーマでもある。
 紀元前も16世紀も、そして21世紀も。
 宗教や正義はすり替えられた免罪符。その名の下に、「寛容」から離れて、他者を攻撃することに自己の道を見いだそうとする人間の「傲慢」。

 エリザベスもまた、人間の「恐怖」や「傲慢」に翻弄される。でも彼女は違った。
 エリザベスは、葛藤の末、勝利した。
 それはエリザベスが、「ジェンダーを越え」「恐れを手放し」「許し」に向かう「内省」と「寛容」の心を得、それを体現したから。その彼女の姿を「神」は受け止め、翼を与え、風を起こし、光射す奇跡の中、スペインの無敵艦隊は海に沈む。
 その奇跡はミラクルではなく、人間が、決して抵抗することのできない真実=宇宙の法則として描かれるのだ。

 神は、宇宙は、生は、寛容なもののそばに常に在る。
 そして愛もまた、男と女という固有な性の中で育まれる愛を超えた所、すなわち「慈悲」の中に存在するのだ。
 「慈悲」には、「所有」も、「エゴ」もない。

 この映画は、衣装、音楽、美術、映像など、例えばエンターテイメントとして一回観るだけでも十分、楽しめる要素を含みながらも、そのメッセージの深さ、情報文化は、まるでミームのように張り巡らされて、何度見てもリリカルでスピリチュアルでかつリアルでフラジャイルな魅力に溢れている。

 これはひとえに監督の力と、そしてこの映画を創り上げたキャスト、スタッフ、すべての秀逸な力の結集だ。

 ぜひ、ご覧下さい。
 残念なことに結構、空いています。だから、早めにご覧になると良いと思います〜。(でないと終わっちゃうよ〜)

 本格的世界史好き我が息子も一応満足していましたよ。

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March 01, 2008

緩やかに手放す

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このところ、ず〜〜っと、行政での仕事が続きます。
それも大きな委員会ばかりで、、(疲れた〜〜。でも大事な仕事。)

和紙の仕事でも、国の支援をいただいての、おっきなプロジェクトが始まりました。
その申請を通す為に、めちゃめちゃ大変な書類を書き上げ、そして、何度もヒアリングに参加して、、、。 ほんと、頑張ったよ。

最近、「税金を使う事、仕事における公的な意味」を切実に考える。

何故、人は仕事をするのか?
もちろん生きるためだけど、それは、人が「決してひとりでは生きていけない」存在であるからこそ、「社会とのつながり」への使命や役務もあるんだって、思う。

本当は、資本主義にだってサンタクロースは存在するはずなんだ。
それが本当の「純粋な自然の贈与」のはずなんだって。

いつも、思う。人は多くを得れば得る程、それを手放したくなくなるけれど、
私は、するりと手放せる人間になりたい。。

しかし、これがなかなか難しいんだけれどね。

今日は、ひさしぶり〜〜に、仕事の人々とワインを飲んだ。
これ、昨年末に名古屋高島屋のワインセラーで購入したものを(私が買ったのではないのですが)行きつけのお店で出してもらったもの。

一日中忙しいと、ご飯を食べていても,ある意味、気分のテンションが下がらず、なかなかリラックスできないのですが、ワインの2杯目頃からすこしだけこころがまあるくなってきた。早く元気になりたいよ〜。

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