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April 03, 2012

仕事

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私にとっての仕事は、イコール人生、でもある。

人として生きる姿そのもの、であって、
単にお金を得る手段なんかじゃない。

仕事を通して社会に貢献したいし、この想いは
自分を満足もさせてくれる。

つまり他者の役に立てると嬉しいし
そのとき他者が幸せを感じてくれたり、
コミュニケーションの中で、
互いに幸せのお裾分けのようなものが出来たり、
問題や課題を抱えていることが、それによって
少しでも改善すれば、
私も
幸せを感じる。

私にとっての仕事とは、そういう行為そのもの。
そして、同時に、もう少し大きなビジョンとしても
私自身の仕事の積み重ねの中で、
私の<大きな願い>の実現に一歩でも近づくための
手段でもある。

そして、私のまわりの人々にも、仕事から
そんな<歓び>を味わってほしい。
その<体験>をしてほしい。

それが私の今の願いでもあるし、
私のまわりの人々は、単にお金のためだけに仕事をしているのだとは
想えないし、想わない。

他者に対して、<あなた、そうでしょ>と
決めつけることはしたくないし、私はしない。

他者の人生、誰も決めつけたり、こうだよね、なんて
言える程、自分は傲慢な人間ではない。

いろいろ学べる4月です。

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イベントの紹介をさせて頂きます。

【な・ほ・ほ ~お寺でコンサートⅡ~】

「な・ほ・ほ」は普段交わることがない楽器を組み合わせ、ジャンルを超えた音楽を作るために結成されたユニット。古典からポップスまで様々な形態の音楽に挑戦。演奏者もお客様も一緒に楽しめるコンサート。

・日時:4月15日(日) 15:00~16:30
・会場:敬恩寺(キョウオンジ)本堂(大垣市長松町817-1)
    ℡0584-91-4642(敬恩寺)
・料金:無料
・演奏曲目:壇ノ浦、蘇州夜曲、花他 
・メンバー:
{薩摩琵琶}細川華鶴子(坂田美子氏に古典~創作琵琶学を師事。「現代邦楽演奏会」等で活躍。東京のプロ集団「日本音楽集団」に在籍。
{鳴り物}望月たきこ(東京芸大邦楽科長唄囃子別科卒業。邦楽演奏会や現代邦楽の世界で活躍。(社)長唄協会会員、鼓藤会主宰
{ヴァイオリン}伊藤嘉美(名古屋芸大音楽学部演奏学科卒。日本弦楽指導者協会中部支部会員。「東海バロックプロジェクト」参加メンバー)
{箏・十七絃}長澤康子(箏、三絃を故坪井慶氏に学ぶ。大垣や名古屋のライブ活動に積極的に参加。ふるさと伝統文化師匠。大垣邦楽邦舞協会会員。長澤社中主宰。)
{フルート}長澤映子(名古屋芸大演奏学科卒(フルート専攻)愛知芸術センター第9回フレッシュコンサート、名古屋笛の会フレッシュコンサート2009、現在フリーで活躍

↑ 一回目に聴きに行きまして大変素晴らしかったものですから、ご紹介した次第です。
敬恩寺との関係を述べます。敬恩寺は江戸時代から続くお灸のお寺として有名です。月に一度、各地で行います。羽島ですと昭和30年頃までは竹鼻別院で行い、その日には市が立ち、竹鼻の商店街が潤いました。近年までお灸は盛んだったのです。
ウチに頼ってみえましたので、丁度私もお寺のことを始めた頃で渡りに舟とばかりに引き受けました。
この頃の私(3年半程前)は非常に純粋でして、会場費を貰わないことを条件にしました。何しろ賽銭箱を全部取っ払ってしまった程で、後で女房が言うには発狂したと町内の噂だったそうです。
ここの御庫裏さんが、余りお寺じみてなく、こう言う活動が好きなのです。
御庫裏さんが言われるには、木造のお堂は音響効果が非常に塩梅良く、コンサートホールよりも良い音に聞こえるそうです。

Posted by: ヒラメ | April 05, 2012 at 06:09 PM

この日曜日の岐阜新聞にカラー写真付きでフラッグアート子ども展が紹介されていましたので、朝の散歩の時間に岐阜市まで行き鑑賞してきました。

四月早朝の涼やかな風に、子ども達の溌剌たる気持ちを乗せたフラッグが、ひらひらそよぎ心洗われる一時を持つことが出来ました。

美術館にフレームをつけて飾ることで生きる作品もあれば、この様な提示の仕方によって初めてその真価が分かる作品もあると思いました。
よく白いキャンバスに思い通り描くと良いと言いますが、子ども達のフラッグを覧ていますと、キャンバスと言うよりも広場で遊んでいる様な、その時のウキウキした気持ちが感じたとられました。

素人の勝手な感想ですが、上手い絵程つまらないと言いますか、構図とか色彩とかまとまっていますと、もっと飛び跳ねてもイイのにと、ご苦労も分からず、思えたのでした。

そう言うわけですから、中学校よりも小学校の方が覧ていて面白く、更に特別支援学校の作品はすべて素晴らしいの一言です。
これは障害に負けず頑張っているという箏ではなく、一番楽しく遊んでいるのでないか、その気持ちがひしひしと伝わるのです。

特に何作も出しておられる岐阜聾学校の生徒の作品は、構図なんか関係無し、一人一人が絵を書く楽しさに溢れている様が手に取る様に感じられました。実に明るいですね。

あくまで素人眼ですが、色彩構図ともまとまり、子どもの感性が満ち溢れ、一番スゴイなと私として感じたのは、「むらさきはなな学級」の児童のフラッグでした。

未来とか夢という文字も散見されますが、余りメッセージ的な作品はどうかと?
子どもというのは今を掴まえる天才で、今やっていることが将来どの様に役立つかと言う様な効率的というか経済主義的な発想から免れているのが素晴らしいので、そうそんな事は考えないと思います。
大人もこの子どもの自由な発想を将来に如何に繋げてやるのかと言った保護者・教育者的な発想ばかり立たず、この子どもの精神を感ずることで自分自身の今を振り返り、自分の未来に役立てていくことを考える事の方が本当であると思いました。

Posted by: ヒラメ | April 10, 2012 at 09:59 AM

【良心の領界 2004 7/24】に寄せる

この記事は20世紀後半を代表するアメリカの知識人スーザンソンダク(1933~2004)の遺作「良心の領界」にMs.Fが触れられたものです。
スーザンソンダクは以前から気になっていた著作家でしたので、これを機に四冊図書館から借りて、今4冊目に入った所です。

読むに従い、スーザンソンダクの雄々しいという言い方は変ですけれど、一生貫く精神に心打たれる思いになりました。
素晴らしい作家を紹介して下さって感謝します。

走り読みですので、まだ感想は無理ですが、どんな作家でも、大抵は有名になりますと、立場、名声、経済を守ろうとして、筆を世評に合わせたりメディアに影響力を行使したりするものです。
その点、スーザンソンダクは徹底的に自分を貫いておられるというか、日本の著名な方にはちょっと例を知りません。
大変読み応えのある方で、小説の方も書いておられるようですから、そちらの方も一、二読んでみたいと思っています。

さて上とは矛盾するようですが、スーザンソンダクも普通の人間と言う感想も待ちました。
それは私の心境の変化に拠るものかも知れませんが、昔ですと小林秀夫とか三島由紀夫、ましてドストエフスキーとかカフカですと、途轍もない巨人で足もとにも寄りつけない存在と畏怖していましたが、それはそれぞれの専門領域に関する話で、この方々は言葉遣いの名手ですから当然その部分では及びもつけないだけと最近思っております。
そんなことを言うのなら、高橋尚子さんや浅田真央ちゃんの方が更に畏れ多い存在と崇め奉らねばなりません。

一個の人間としての全体領域では、市井の庶民も年表に出てくる様な人達も、目に見える様に表現されないだけで、同じ重さで人間としてのドラマを紡いでいると思えてなりません。

こんな事を思った一つの理由は、今岐阜市神田町通りで展示されているフラッグアート子ども展を覧て、スーザンソンダクの本を読むのと同じ重さ、換言しますと、私にとっての一つの体験として捉えられたからです。

思い思いに描かれた子ども達の絵を覧て、人間としての喜び、楽しさ、想いの広がり、仲間との切磋琢磨などがひしひしと感じられました。
その心に生じている想いの重さについて言えば、天才偉人との間に、優劣、上下、大小は無いと思います。

私たちは物事を判断する時に、最初からレッテルを貼ってしまい、予め決められた評価基準に沿って決めつけすぎているのではないでしょうか。
昔のテレビの録画コンサートで体験したことで、係が腕を振り回すと一斉にワッと拍手するみたいな、感動すればそれで良いのですが、自分の力にはなりませんです。

話を戻して、スーザンソンダクも普通のおばさんと捉えると、正直で不器用。たまさか頭がイイばっかりに、休む間もなくそれを誠実に行使されて、そう言う意味では一方頭のない私は、労することなく彼女が育てた果実を読書という形で味わえます。

孰れにしましても自分の人生は自分が生きる以外はないわけで、その点は互角です。
他人がどう評価するか、それは他人が評価することで、自分には関係ありません。


Posted by: ヒラメ | April 12, 2012 at 06:52 PM

《スーザンソンダクの続き》

朝から、ロランバルト「零度のエクリチュール」、スーザンソンダク「書くこと、ロランバルトについて」(みすず書房)を読んでおります。
何とも浮世離れしておりますが、前者は難しくってひとまず30頁で中断して、後者に移りました。

まだ読み終わっていないのですが、忘れるといけませんので、スーザンソンダクのロランバルトを論じた評論の中に(私)を考えるに非常に本質的な文章がありましたので、ご紹介します。

又、ここまでMr.Fのブログを読ませて頂きまして、私と同様に思える節も感じておりまして、お読み頂くと何かのご参考になるかも知れないと思ったからでもあります。

上書133頁13行~134頁4行の節(部分)

『・・・自己を使命ととらえ、人生とはその自己を読む事とするプロジェクトに関与した最近の大物がバルトなのである。この企画では、自己を、あらゆる可能性が集中し、矛盾を貪欲に求め、それを恐れない場とみなし・・・、意識の行使を人生の最高の目標とみなすことになる。人が自由になれるのは、完全に意識化することを通して以外にはないはずだからだ。・・・』

ポイントは「人が自由になれるのは、意識化することを通して以外ない」だと思いますが、さあどうでしょうか???

2004年頃のブログに、Ms.Fは『息子はいつも音楽を聴いている。私はいつも考えている』と、大変印象に残る事を書いておられます。
考えるとは意識化とも言えなくもありません。

ところで私が上に(?)を三つ振った理由ですが、極めて私的な経験に拠ります。

私は、しばしばいつも不安感に襲われながら授業に臨んでいました。ちょっときついことを生徒から言われたりすると、もう二度と教壇に立てないのでなかろうかという思いに駆られ、精神科医に相談したり、落ち込みが厳しい時には診断書を提出して休みました。

今はこの具体的状況に触れるつもりつもりはありません。
問題として挙げたいことは、私自身がこの状況を打破するために内面で行った精神作業の様なものです。
これが意識化という作業です。
自己を知り、不安に駆られている因果関係を言語化できさえすれば、不安から脱却できるのではないかと思った、と言うか正しくは、それしか出来なかったわけです。
心の奥底では薬とか、ましてカウンセラーが役に立つなどとは信じられないことでした。

さて、この自己の意識化は事態の改善に役立ったかと言いますと、何の役にも立ちませんでした。結論としては、事態を悪化させることも改善することもなく、それは全然別個のことで、現実的な改善策は転勤、言い換えれば逃避ですね、でした。

私は、私の経験を通して、スーザンソンダクの言説は逆ではないかと思うのです。

即ち、「完全な意識化を通して人が自由になれる」のでなく、「人が自由になることによって完全な意識化が可能になる」

「良心の領域」の最期を看取った息子さんの前書きに拠れば、スーザンソンダクは自己消滅の恐怖感に人並みに苛まれたとあります。
これで言えば、彼女の数十年に及ぶ斯く斯くたる意識化の歩みも精神の自由に貢献出来なかったと嘆息せざるを得ません。

全く話が飛躍しますが、推測するに先祖の佐吉さんが死の恐怖に襲われたとは到底考えられないのです。(追い剥ぎの一団に襲われた時も堂々としておられた位ですから)
感謝と至福の中で永眠された、真に涅槃の境地にあられたと讃仰せざるを得ません。

スーザンソンダクは、この書に拠ればロランバルトも、日本文化に対する憧れを強く持っておられたようです。お二方とも何か西洋の発想とは違うモノを感じられたのではないかと思います。

私も引用文の通り相当の『人生とは自己を読む事』タイプではありますが、どうもそれだけではいけないのでないかと、ウスウス感じておるのであります。

長くなりまして恐縮です。

Posted by: ヒラメ | April 22, 2012 at 04:46 PM

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